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自由主義と共産主義の間、グローバリズムとナショナリズムの間の今は何処? <外道たちの最中で> 切ない事情 
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Posted by - 2025.05.06,Tue
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Posted by 残心 - 2015.05.24,Sun
先日の記事で「ねずさん」のブログを採り上げ、「公地公民」の復活を希望していたのにちょっとだけ衝撃を受け、今回少し掘り下げ。

作家さんのHPで、少し長いがおもしろいので掲載。
日本人はなぜ社会主義が好きか  (国際派時事コラム「商社マンに技あり!」

公地公民の制が大好きな日本人 (平成13年)

自由民主党は「社会主義政党」なのだと ふつうのひとに説明しても、あまりの論理の飛躍に、なかなか理解してもらえなかった。
 日本は「社会主義国」だ、という説明も同じで、つい最近までなかなか理解してもらえなかった。
 
 小泉政権は、自由民主党を「社会主義政党」から「自由主義政党」へと変えることでもって、日本の社会主義の幕引きをしたいと考えている。
 ようやく平成の自由主義革命が始まるのだろうか。
 明治の自由主義革命にならって。

「班田収授の法」は日本社会主義の原点
 
 社会主義はマルクスが始めたものだと思っている人に、日本国の国体はもともと「社会主義」だった、と説明しても、なかなか理解してもらえない。
 そういう人に限って、「日本の民主主義はマッカーサーによって導入された」などと言う。
 
 とんでもない話で、「社会主義」も「民主主義」も、日本には古代からあったのだ
 
 「政府が経済を一元的に支配し、平等主義に基づき、政府機構による富の分配で人民の福利を図る」のが社会主義だ。 公的経済セクターが支配的な体制をいう。
 だとすれば、大化の改新を契機にその後数十年をかけて実現をめざした公地公民の制」こそ、まぎれもない「社会主義」ではないか。
 
 読者の皆さん、日本史の授業を習ったときに、そう思いませんでしたか?
 
 唐朝中国で行われていたとされる(実際にどこまで実践されていたかどうかは検証を要するが)、革新的な農地分配制度を 日本式に焼き直した 「班田収授はんでんしゅうじゅの法」は、官僚制社会主義のひとつの理想形だ。
 明治維新や昭和20年代後半を見ても分かるように、日本は異文明の制度をその理想形でもって受け容れるのに長たけている。この「班田収授社会主義」もみごとに受け容れてしまった。
 
 この班田収授社会主義、当時の日本人に大いに受けたのではなかろうか。

 教科書の古代日本には 「豪族」なるものが盛んに登場する。 今日的に言えば「武装富豪」である。この富豪たちが群雄割拠し、人民の処遇がまちまちの自由主義経済よりも、富豪たちが官僚制のなかで矮小化して平等主義がより徹底する社会主義経済のほうを、ムラ社会の日本人たちは好んだのに違いない。
 
 「公地公民の制」は、今日でも評判が非常によろしい。「税率が依然として高かった」とか「施行が不徹底だった」とかいう批判はあっても、公地公民の制の理念そのものを非難する日本史を見たことがない

社会主義経済から混合経済への移行を体験した古代日本
 
 ところが、この班田収授社会主義は8世紀前半にさっそく破綻してしまう。
 農地開墾推進のために必要な「事業家精神」を、社会主義がつぶしてしまったのだ
 
 農地開墾の奨励のため、平城京の社会主義政権は自由主義経済を認めるという策に出る。(社会主義と資本主義を混合させた、いわゆる「混合経済」。)
 開墾地の私的用益権・所有権を認める「三世一身さんぜいっしん法」(養老7年、西紀723年)や「墾田永年私財こんでんえいねんしざい法」(天平15年、西紀743年)がこれだ。
 公地公民という社会主義の原則が崩れて、私有地が拡大していくことになる。
 
 20世紀の社会主義国が、純粋社会主義ではうまくいかず市場経済を導入する姿と、何とよく似ていることだろう!
 
 農地開墾というのは、古代・中世においては 最大の産業投資である。 「土建業」の発祥と言ってよい。農業と土建業は、つねにワンセットなのだ。
 今でもそうでしょ?
 この「農業・土建業」を、社会主義(班田収授)セクターだけでやるか、自由主義(荘園)セクターをどこまで認めるか ―― 平城・平安の班田収授社会主義政権にとっては深刻な命題だった。
 
自由主義経済のための民法典まで作った鎌倉政権
 
 鎌倉政権は、班田収授社会主義を全否定した自由主義経済政権だった。私人による土地の管理・処分が当然のこととされ、そのため社会主義の法律である律令では対応できず、御成敗式目という民法典を制定する(貞永元年、西紀1232年)。
 鎌倉時代とは、京都の社会主義政権と鎌倉の自由主義政権が融通無碍むげに日本国を統治した時代と言えまいか。
 
 建武の新政は、前政権が残した自由主義経済を社会主義化(中国風の皇帝が君臨する中央政府の支配のもとに一元化)しようとしたのだが、純粋社会主義を志向しすぎて失敗する。

 室町幕府は、寄合い所帯のワケの分からない政権で、どこか平成の民主党を彷彿ほうふつとさせるところがある。
 そして戦国時代は、社会主義体制が完璧に崩壊して混沌の自由主義経済体制となった時期と言えようか。

和の社会主義を完成し、再び混合経済へ向かった徳川時代
 
 豊臣政権は、社会主義体制の復活を目指した政権で、「太閤検地」でもって中央政府が全国の「公地公民」を把握しようとした。
 
 これを完成させたのが徳川政権だ。
 徳川政治は、「儒教社会主義」と言うべきかもしれないが、イメージモデルとしては「公地公民の制」を目指していたように思う。
 
 7世紀に確立した統一国家の社会主義こそ日本政治の本流なりという意識は、日本の歴史を通じて根強いように思われる。
 
 これが260年間も持ちこたえたのは、経済の地方分権が徹底していたからだろう。
 徳川幕府が経済を司ったのは、全国約3,000万石ごくの土地のうち400万石と主要鉱山、江戸・京都・大坂に限られた。全国の諸大名の領地は、それぞれの大名家の経済官僚が政策を立てて統治した。経済政策の競い合いがあったことだろう。
 社会主義経済も、適正な規模の分権が伴えば、それなりにうまく行くということではなかろうか。(平成のいま、いわゆる「道州制」が脚光を浴びるのもそのためだ。)

 徳川時代の「享保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」という3大「改革」は、自由主義商品経済化していく社会を、何とかコメ本位の社会主義経済」に戻そうという政策だったと考えれば分かりやすい。
 「商業資本の抑制と社会主義農業の再生」が3大改革に共通するテーマだ。
 文芸・芸能・遊興に対する抑圧という社会主義国の十八番も、ちゃんとこれら「改革」のプログラムに含まれている。
 
 徳川時代は、社会主義を理想形として幕府と各藩が経済政策を競い合いつつ、結局は大都市の自由主義経済に押し切られた時代と言えるだろう。
 
 無政府的戦国体制から社会主義経済を経て自由主義経済へ移行する―― この、マルクス・レーニンの教えとは 全く異なるプロセスこそ、 人間社会の実相である。
 見よ、大陸中国もまさに、無政府的戦国体制から社会主義経済を経て、自由主義経済へ移行しつつあるではないか。

自由主義経済を推し進めた明治政権
 
 明治政権は、徳川政権の「地方分権社会主義経済」に対して「中央集権自由主義経済」を目指したと言えまいか。
 
 マルクス主義歴史家からは極めて評判の悪い「地租改正」は、農地の商品化を通じて農業の自由主義経済化を目指したものだ。

 当時の先端技術を駆使した官営模範工場や、江戸幕府が絶対に外様大名には渡さなかった鉱山利権を、なんと明治政権は次々と民間資本へ払い下げ、自由主義経済の活性化を図る
 
 紡績工場や炭坑、製鉄所を、「紡績公団」「石炭公社」「製鉄事業団」といった名前で社会主義セクターに押し止めておく手もあったろうに。(徳川政権ならそうしただろう。)
 ところが明治政権は、大胆にもこれらを次々に民間資本化していく。
 
 特殊法人の廃止に てこずってきた昭和・平成1桁の社会主義政権を思うとき、明治政権の諸政策は痛快なまでに大胆だ。
 
 私心なく自由主義経済の発展のために邁進し、数多くの民間企業を創設していった渋沢栄一のような実業家を、明治政権も国民も強く支持した。
 自由主義経済を唱導し、これを健全に維持していくための国民意識の成熟を願った福沢諭吉の思想こそが、よき明治の時代精神だった。
 
 自由主義経済への信奉に1つの転換点がおとずれたのが、明治39年の鉄道国有法制定だろう。
 この鉄道国有化、各方面の支持を得ての政策だったらしい。時代精神が社会主義へとグラリと動きはじめた。
 鉄道の社会主義経営のための国家機関が、明治41年設立の鉄道院だ。
 
「公地公民の制」を憧憬して、軍部と無産政党が結託

 欧米へのキャッチアップを一応果たした明治時代が終わると、日本人は波瀾万丈の自由主義経済を疎うとましく思い、再び「公地公民の制」を憧憬しはじめた。

 日本式社会主義を実現する勢力として期待されたのが、第二政府たる「軍部」であったと言えまいか。国民は、既存政党よりも軍部の方が、より平等公正な富の分配を行うであろうと期待した。

 1934(昭和9)年、陸軍が国の政策全般にわたってみずからの改革の構想を発表して、世に大きな反響をよんだが、この構想の起草には有力な無産政党である社会大衆党の幹部が加わっていた
(山川出版社『現代の日本史』高等学校用文部省検定済教科書より)
 社会大衆党は、日本社会党の前身である。

 社会主義へと向かう時代精神を結実させたのが、おぞましき近衛文麿内閣の国家総動員法(昭和13年)だ。

財界や立憲民政党・立憲政友会のあいだでは、国家総動員法案が、自由主義にもとづく資本主義経済を否定し、議会の立法機能をそこなうもので、憲法違反であるとして反対する声が強かった。一方、社会大衆党は、同法案をつうじて社会主義を実現しようとして、法案を積極的に支持した。
(山川出版社『現代の日本史』高等学校用文部省検定済教科書より)

大戦後も推進されつづけた農村の社会主義化
 
 長い長い日本の農村の社会主義物語は、最終的に「農地改革」による農業資本家(大地主)の排除、「農業共同組合」という人民公社方式の完成によって完結する。
 国家が米価を決定し米を買上げる、この典型的社会主義体制を仕上げたのは自民党だ。
 
 会社組織による農業 (自由主義経済) は、いまだに日本では認められていない。
 商社が大規模農場を経営して米を作る、なんて話、聞いたことないでしょ、日本では。

 さきに、「農業と土建業は、つねにワンセットなのだ」と書いたが、この「土建業」も自民党は社会主義経済体制でもって支援した。いわゆる「公共事業」がこれだ。
 
 かくして、日本の農村は、「役場」「農協」「公共事業土建」「郵便局」という社会主義セクターしか産業がない地域になってしまった。
 ここを票田とするのが、社会主義政党「自民党」なのである。
 
2大社会主義政党が競い合った20世紀後半
 
 20世紀後半の日本の悲劇は、この社会主義政党「自由民主党」に対抗する勢力が、よりによってこれまた社会主義政党だったことだ。
 「日本社会党」は一応マルクス主義を信奉したことになっているのだけれど、実は「反米」と「土の臭いへの嫌悪感」が融合屈折したあげくに、ソ連や大陸中国はては朝鮮国に手玉に取られただけだった。
 
 日本が戦後復興を驀進ばくしんし、欧米先進国に再び追い付こうとしていたころは、それでも問題がなかったのだ。
 いかに政党やメディアが空理空論を振りまこうと、政治が目指すべき現実目標が海の向こうにあった。いかに政治家がキレイ事を言い、あるいは国家をしゃぶりつくせと叫んでも、日本はまだまだ貧しく、無い袖は振れなかった。
 
 適度の(あるいは過度の)インフレが、国債の返済を容易にした。
 
 ところが、そうこうするうちに日本は、世界でも稀まれな「富裕な社会主義国」になってしまった。
 自民党と社会党の2つの社会主義勢力が、これでもかこれでもかと社会主義政策を競い合った
 
 最近は選挙でもほとんど聞かれなくなったが、昭和50年代からバブル崩壊までは、選挙といえば「福祉の充実」の連呼で耳にタコができそうだった。

社会主義的投資と社会主義的収奪

 「公共事業」という名の社会主義事業も、ぐいぐいと推進された。
 インフラ整備が一段落すると、投資効果のある無しは度外視されはじめ、「景気対策」が錦の御旗となった。およそすべての公共事業土建が、ケインズ派の乗数効果論でもって安易に是認された。
 自由主義経済セクターを支える都市部よりも、社会主義経済地域への公共投資が手厚く行われた。

 これらのばらまきを推進したのが、社会主義銀行「郵便貯金」を究極の担保とする国債の乱発だ。社会主義セクターが先進国日本の経済をとことん覆っていったのだ。
 
 税制もまた社会主義税制である。
 世界でも有数の累進課税は、社会主義的平等主義の産物だ。
 高率の相続税は、自由主義経済に生きようとする個人経営事業者の事業継承を困難にする。

社会主義の呪縛からどう脱するか ■(これ以降12月24日の加筆部分)
 
 このメールマガジンのある読者の方から、小泉政権の「聖域なき構造改革」の行方をどう見るか、というご質問をいただいた。

 お答えを書き始めた。
 書きながら、日本人ってどうしてこんなに社会主義が大好きなのかしらんと思った。試みに日本史を振返ってみたのが、このコラムである。
 
 与野党の代議士諸君は、自分が「社会主義推進派」なのか否か、とくと自問してほしい。
 我こそは社会主義の信奉者と思わん者は、「日本社会主義の本流」たる、自民党「橋本派」に合流されてはいかがか。
 
 農業・土建業社会主義こそ、日本人の骨の髄にまで染み入った基本原理と言ってよい。だから、「保守政党」が社会主義の信奉者であっても、何の不思議もない。
 皇室と社会主義も全く矛盾しない。むしろ、今につながる「天皇」のありようが確立されたのは、「班田収授社会主義」の成立のときと言ってもよい
 だから、惰性で政治を行えば、日本の政治はかならず社会主義に行きついてしまう
 
 「聖域なき構造改革」とは、わが内なる社会主義にたたかいを挑むということだ。
 国民の富の運用を、できるかぎり民間セクターにゆだねよう。役所がビジネスの世界を食い散らかすのはやめてほしい。
 あの、明治前期の躍動感がほしいのだ!
 
「道州制」を導入して、責任財政を行政の世界に
 
 と言っても、骨の髄に染みている社会主義とはおさらばできないから、さらに1つの処方箋は、江戸時代に習っての「地方分権」、すなわち「道州制の導入」だ。

 道州制が導入されていれば、本州と四国に3つの架橋ルートができることはなかったろう。「四国」という単位で財政が仕切られていたとすれば、資金の効率的利用をもっと真剣に考えたはずだ。
 愛媛・香川・徳島の「県人」が、それぞれに己おのれの県への架橋に奔走したのは、「ヒトの金」でやれる事業だったからだ。
 
 もし「四国」という単位の財政で処理する事業だったとしたら、岡山県と香川県を結ぶ1ルートだけで済んでいたろう。
 
 そして、たとえば「愛媛」を考えるなら、今治・尾道間の架橋よりも、松山・小松間の直通JR路線(予讃線の新線)に投資したほうが経済メリットははるかに大きかった。
 ところが、本四架橋なら「ヒトのカネ」(他地域の税収)をつぎ込みやすい。だから本四架橋推進に奔走した。
 
 「無責任社会主義財政」が、3ルートの本四架橋を生んだのだ。
 あるていどの「社会主義」は、もう仕方ないとして、せめて「責任財政」でおこなってくれぬか。
 これを実現するには、「道州制」しかないと思う。   (抜粋)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
日本好き 公地公民 社会主義          和の文化
自由主義 行き過ぎるとまた 社会主義    逆もまた真なり
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
平成13年当時、この筆者は構造改革(民営化)・道州制に賛成の立場だった模様。
平成27年の今はどう考えているか?

「社会主義」と言うとすぐマルクス共産主義を思い浮かべてしまうが、もっと人間的な意味での社会主義というのがあって、それを日本は目指していた・・・ような印象もある。
やはりここでも、「自由主義と社会主義の間の程度の問題」というバランス問題になってくるのか。
しかし、日本史を公地公民を基に検証するとこのようになるのは興味深い。

共産国のように「一党独裁」ではなく、「民主的に・分権された社会主義」というものがあれば、江戸期のように永く繁栄しそうに思うが、空想的過ぎるか。

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