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自由主義と共産主義の間、グローバリズムとナショナリズムの間の今は何処? <外道たちの最中で> 切ない事情 
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Posted by - 2025.05.06,Tue
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Posted by 残心 - 2015.12.13,Sun
奈良・平安時代では、死刑の執行がほぼなかったらしいが・・・。
刑法と法治主義  (ねずさんのひとりごと)

《 勝手に要約 》
大昔の日本では、大宝律令、養老律令のように、律令制度が敷かれていましたが、律令というのは、律が刑事法令が民事法です。

律令制度自体は、支那の王朝の制度に倣(なら)ったものです。
支那では日本と逆で、むしろ律令は刑罰のための「」が中心でした。
令は補完的なものにすぎないし、むしろ政治によって破られるのがあたりまえのものでしかありませんでした。

ところが日本では、「律」は、ほとんど施行されず、むしろ「」ばかりが、広がったわけです。
どうしてでしょうか。

たとえば盗人が、ある家に強盗に入った。捕まった。そこで処罰するのに、刑期を何年にする、と決めたのが刑事法の「律」です。

そして、そうした不幸が起きてからでなければ裁けないということなら、その国はとっても不幸な国です。
なぜなら、犯罪を未然に抑止していないからです。

日本では、もし、天皇の民が不幸な事態に巻き込まれる、つまり強盗や強姦や殺人事件などに巻き込まれたなら、それは「加害者の責任ではなく、臣の責任」と考えられたのです。

なぜそのように考えられたのかといえば、答えは明白です。
「責任と権限」は一体だからです。
権限があるから、責任があるのです。
責任があるから、権限があるのです。

権限のある者が、総力をあげて犯罪を未然に防いだのです
だから犯罪のない、安定して安心して暮らせる世の中が生まれました。

奈良・平安時代には死刑が執行されなかったという話は、学校でも教わることですが、死刑が非人道的だから死刑を執行しなかったのではありません。
死刑の執行など起きないように、つまり重大犯罪が起きないように、総力をあげて犯罪を未然に防いでいたから、結果として死刑を執行する必要がなかったのです。

この点、現代の日本は、奈良平安の昔の日本よりも、はるかに遅れた社会を営んでいると言わざるを得ません。

道徳心を養い、権限と責任が明確であること
それが実現できないのが法治主義だというのなら、法治主義は、極めて退廃的かつオクレタシステムと云わざるをえないのではないかと思います。

支那のように、次々と起こる犯罪に厳罰をもって対処する国と、
昔の日本のように、世を挙げて犯罪そのものを発生させない国と、
どちらが安心して住める、住みよい国といえるのでしょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
権限が あれば責任 ついてくる     以前の日本の統治
犯罪が 起きる以前に 防いでる        〃
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
今の韓国などは人治主義だと言われているが、法治主義でさえも遅れているのか?
以前の日本のように、犯罪を未然に防げる社会に戻すのは不可能かも・・・。

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